ウンザリアダルト

夜じゃないと書けない言葉がありますね。

この21歳という年齢は、なんて苦しいんだろうと思うことがあります。「大人でいなくてはならない」では語弊があり、「子供でいてはいけない」という禁止で語られることが最もふさわしい表現であると思います。

私なんて容姿も振る舞いも子供っぽくて、同い年のしっかりした子たちにはいつも引け目を感じています。ちょうど過渡期というのでしょうね。子供であったはずなのに、もう成人を迎えてから1年経って、学生という身分ではありながらも、みんなしっかりしてきているのですよ。そりゃあ社会常識を身に染み込ませた大人から見ればとてもとても拙いものでしょうけれども、つい先日まで思春期の危うさに揺れる激動の日々を過ごしていたはずなのに、もうみんなすっかり社会性を意識して人と交わっているのです。

このタイムスリップを味わったかのような同年代の成長模様は、やはり高等教育を早々にドロップアウトした私への罰なのでしょうか。本当に、浦島太郎の気分になることが大学に入ってからというもの頻繁にあるのです。

実にお恥ずかしい話ですが、高校を中退してからの私の生活は本当に退廃的なものでした。濃い化粧をし、男と遊び、夜の街を歩き、夜の店で働き、そうやって生きていたのです。その頃は、そうやって生きたかったのです。しかし親の心配する顔は拭えませんでした。だから大検をとり大学受験をしたのです。

私は、どんな道であろうとも、たとえば間違った道であろうとも、その人の本質がまっすぐにその道に進ませるのならばそれでいいと思っています。でも私はドロップアウト後の世界にずっとはいられない性格だったのです。

ですから、このみんなが子供から大人らしい振る舞いへと成長していくときを、みているだけじゃだめなのだと思ったのです。私は普通の社会への切符を得るために大学へ来たのだから。こんな欠陥品の私が社会に入ることを許可してもらうために来たのだから。

だから、私ももう、子供でいてはなりません。

大人になろうと試みなければなりません。

 

自分の少女時代へラブレターを送りたいくらい、少し長かった思春期の日々が好きでした。くだらない恋に身を焦がし、体を傷つけて血と涙を垂れ流し、とにかく無計画に無駄に日々を過ごし、散文的な詩を書いて溢れ出る感情をなぞり、音楽の一粒一粒に心ふるわせ、猥雑な繁華街を駆け抜けてラヴホテルで虚しいという言葉の意味を追いかけてみたり、時には土手から夕日に光る川を見つめて、あまりに優しすぎる風に涙の雫を預けたりしました。全てはやりたくてやったことでした。もうあんな感性で日々を生きれることはないし、どちらにせよもうとても許されないと思うと本当に切ないです。コントラストの強い日常。青春時代。汚れた思春期。とっても好きだった。あのとき聞いていた音楽も全て、とても忘れられそうにありません。どうして大人にならなくてはいけないの?そうじゃないとお母さんが悲しむからよ。心の中の私がそう即答するうちは、とても大人にはなれそうもないんです。

 

でも、私はもう、子供でいてはなりません。

大人になろうと試みなければなりません。

 

(一度死んで生まれ変わるぐらいの苦痛を、また味わえるのかしらとドキドキもしています。ほんとはね)